考えるな感じろ
かの有名な映画スター
ブルース・リーは言った。
またこんな名言も残している
「一万種類の蹴りを持つ者は怖くない。私が怖いのは同じ蹴りを一万回訓練した者だ」
反復は究極、基礎こそ究極って、事ですね。
これに似た言葉を
「私の相撲人生の中でもたくさん技がある人は一つも怖くなかったです。型を持っている人間が一番怖かったです」
と。
大相撲秋場所限りで現役を引退した元横綱白鵬の間垣親方(36)引退会見で出た言葉は多くの人の心を動かした。
「私の相撲人生の中でもたくさん技がある人は一つも怖くなかったです。型を持っている人間が一番怖かったです」
更に深みのある言葉は感銘をうける
「若手の力士にはまず基本を大事にし、型を作ること。そして型ができたときに型を破ること。まさに型をもって型にこだわらない。そうすれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います」
型を持って型を壊す。
これは
大横綱白鵬にしか分からないつらさもあったから
こそ出た言葉なのかもしれなち。
白鵬は
「途中、つらい部分もありましたけど、綱を長く張ることで何かできるんじゃないかという思いもありました。それがこの白鵬杯。子供たち、世界の子供たちに相撲に興味を持ってもらいたい。現役で続けていきたい思いはそこにあったと思います。(自身が)最多優勝の記録を更新したときに目標を失う、夢を失う寂しさ悲しさがあったものですから。やっぱり目標、夢が大きくあればあるほど将来、大相撲を目指す子供たちが頑張っていくんじゃないかという思いで一生懸命頑張ったつもりではあります」
そう
白鵬はリスペクトを大事にしている。
国境や人種など関係のないリスペクトを持っている
たとえば
―記憶に残る一番はときかれたら
「たくさんありますけど、一つに選べません。二つにしたいと思っています。上がってきて上位で壁に当たったとき、最初で最後の金星、横綱朝青龍関に勝った一番。そして何といっても双葉山関の69連勝に挑戦したときに負けた稀勢の里関。この二つを挙げたいと思います。あの負けがあるからここまでこれたっていうのはあると思います」
当時叩かれていた稀勢の里を現役時代かなり警戒していた白鵬。
だからこそ稀勢の里は敵わなかったのだが、稀勢の里に負けた一番は自分を強くしてくれた
大事な、一番として深く心に刻んでいるようだ。
そんな白鵬が若い世代への言葉が深い
「基本を大事にして、まずは型を作って、その型が出来上がったときに型を破る。まさに型をもって型にこだわらない。これができていれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います。私の相撲人生の中でもたくさん技がある人は一つも怖くなかったです。型を持っている人間が一番怖かったです」
15歳で来日し、相撲のイロハを学んだ大阪府大東市の物流会社「摂津倉庫」での日々だという。
ムンフバト・ダバジャルガル、のちの白鵬
モンゴルから来日したのは平成12年10月25日。アマチュア相撲の名門、摂津倉庫の本社ビルで寝泊まりし、同郷の仲間6人とともに2カ月間、稽古に励んだという。
早朝4時に起きて走り込み、四股やすり足といった相撲の基本と礼節を教わった。 うち3人がスカウトされて角界入りした一方で、白鵬には待てども声がかからなかった。
今でこそ192センチ、155キロの堂々たる体格を誇るが、この頃はまだ175センチ、62キロのやせっぽち。当時の心境について、こう語ったことがある。
「悔しさもあったけど、どっちみち選ばれないだろうと。7人が並んでいたら、体格がいい子を選びますよね。わざわざ細い子を選ばないでしょう」 お別れ会で直談判 12月22日、翌日の帰国便のチケットを手渡され、両親への土産も購入。
それでも、少年だった白鵬は一筋の望みに懸けた。
夕方に開かれたお別れ会の席で、異国の若者らを迎え入れた当時の社長、故浅野毅(つよし)さん(享年77)に思いの丈をぶつけたのだ。 「日本に残りたい。どうしても、お相撲さんになりたいんです」。熱意に打たれた浅野さんが角界関係者に電話をかけ、宮城野部屋に拾われるかたちで輝かしい未来が開ける。
「『残りものには福がある』と言いますけど、本当に私のことだと思いますね」。と白鵬は語る
白鵬は横綱になっても
宮城野部屋を紹介してくれた
浅野さんを「大阪のお父さん」と慕った。
春場所(大阪)
浅野さんを欠かさず訪ね、近況を報告した。浅野さんの長男で、現社長の弘資(ひろつぐ)さん(54)は「出稽古にも来てくれたりしてね。お金も名誉も手に入れたのに恩を忘れない。大したもんですよ」と話すという。
白鵬関は叩かれていた。
白鵬が強すぎた力士だったのと同じ時代に強い力士が少なかった。
過去の偉人と比べる事はできないが、歴代の横綱と戦っても圧倒的な強さだと想像できる。