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曙関、リスペクトしかないです。

大相撲の面白さを教えてくれたのは間違いなく曙、貴乃花若乃花達だった。。


大相撲界のレジェンドが散ってしまい多くの1人達の心に大きな穴が開いてしまった。


第64代横綱を務めた曙太郎さんの死去は悲しさで溢れた。

大相撲で史上初の外国出身横綱となり、格闘家としても活動した元横綱・曙の曙太郎(あけぼの・たろう、旧名チャド・ローウェン)さんが4月上旬に心不全のため東京都内の病院で死去した。54歳だった。



ハワイ出身で、1988年春場所初土俵で同期の貴乃花若乃花の兄弟横綱らと熱戦を繰り広げ90年代の大相撲ブームを支えた。


生まれた年代で「推し」の関取は誰しも必ずいたはずだ。
しかし、近年ではおそらく相撲を全く見ない人達が増えたはずだ。


若貴時代と呼ばれる相撲ブームを体感した人達は多い。
前の時代には千代の富士北の湖小錦、霧島、寺尾など充分に楽しめる相撲があった。
若貴時代終焉後も荒くれたモンゴル相撲出身力士の活躍、朝青龍白鵬と活躍した。そこで離脱した人も少なからずいたのかもしれないが、国技相撲は今もなお人気は続く。

しかし、江戸時代から今まで
最もブームになったのはやはり
若貴時代ではないだろうか?これは大昔の過去は知らないが何とも言えないが、、テレビの普及やらなんやらを考えてのことだ。



その、中心にいたのが若乃花貴乃花、曙だ。

周りを固める力士達も個性的!
武蔵丸貴ノ浪魁皇貴闘力舞の海、、


曙の圧倒的強さ、貴乃花若乃花の食らいつく姿、後に互角の戦いを繰り広げる面白さは手に汗を握る取り組みばかりだった。



曙さん死去に際して、元横綱3代目若乃花花田虎上氏も、悲しみに暮れる心の内を明かした。

「ライバルであり、苦楽をともにした良き友でもありました。あの大きい体と、そしてアメリカ人として戦えたことは本当に光栄でした。絶対に負けられないという戦い甲斐のある人でした」と述懐。

さらに続けた。「土俵では互いに憎しみを込めて戦っていましたが、引退した後は教習所時代のことを思い出したり、会いたい人でもありました」と語る。

真剣勝負を繰り広げたからこそ生まれる、真の友情が曙さんとの間に育まれた。



忘れられない6年前の思い出があるという。

病床に伏していた曙さんを見舞いに、花田氏は病院を訪れた。
番組の企画ではあるが、その時の曙の反応は人々を感動させた。

その時に事前に聞かされた関係者からのショッキングな言葉があったという。

その時、曙さんは記憶を失っていて「花田さんの顔を見ても誰か分からないかもしれません」と伝えられた。夫人のことは何とか分かるのだが、子どもに対しては反応できる状態ではなかったという。そんな状況で、いざ対面すると…。「私のことを、すぐに分かってくれたんです」。その証しなのか、曙さんは涙をボロボロこぼした。


ーーとあるが、映像では活き活きとした曙さんの目が写されていた。
若乃花と会うまでは死んだような目をしていたのに若乃花と再会してからは生き返ったような目をしていたのが印象的だ。




それ以前に、まだ曙さんが元気な時に交わした約束があった。「以前から話していたんです。お互いにリタイアしたら(曙さんの出身地の)ハワイの木の下で同期生みんなで集まって会おうねって」。前述の見舞いの後、もう1度、会いたいと願った花田氏だが、コロナ禍になってそれもかなわず、まばゆいばかりの陽光の下、ハワイで再会する夢も露と消えた。「すいません。何と言ったらいいのか言葉がまとまりません」。追悼の言葉を探しあぐねる花田氏だったそうです。


対戦成績も若乃花とは曙さんが少し勝ち越していました。

まさにライバルですね。

そして、、最大級のライバルはやはり

貴乃花だ。







 7年に及ぶ闘病生活の末に曙太郎が力尽きた。16年4月に自らが社長を務めるプロレス団体「王道」を旗揚げし順調な格闘家人生を送っていた曙さんは2017年4月、福岡県大牟田市でのプロレスの試合後に体調を崩し救急搬送された。

 入院は長期化し、18年9月下旬には心停止に見舞われたことで重度の記憶障害が後遺症として残るなど再び危険な状態に陥った。



ハワイから駆けつけた長男ら家族が見守る前で54年の人生に終止符を打った。亡くなる直前にクリスティーン麗子夫人に「アイラブユー」と伝えたという。

 数々の名勝負を演じた貴乃花氏は「ご家族の皆さまとご遺族に哀悼の意を表したいと思います。ハワイから来日し今日に至るまで、日本の文化を感じて幾多の苦労があったかと思います。百折不撓(ふとう)の人生観だったと思いますが、これからは身を楽にして安らかに」と悼んだ。

 曙さんは同じハワイ出身で外国出身初の関取となった東関親方(当時、元関脇・高見山)にスカウトされ88年春場所初土俵を踏んだ。3代目若乃花貴乃花の兄弟横綱大関魁皇ら関取11人というハイレベルな同期とともに、空前の相撲ブームの火付け役となった。


貴乃花氏は「群雄割拠の時代にハワイから訪れて取組を面白くしてくれた方です」と感謝。対戦成績は21勝21敗と五分で、若乃花とも18勝17敗。人気絶頂の若貴兄弟の前に「敵役」として立ちはだかり、大関横綱昇進は2人に先んじたのが曙さんだった。

 最大のハイライトは3人が優勝決定巴戦を戦った1993年名古屋場所。平均視聴率37・6%、瞬間最高視聴率66・7%と国民が若貴対決を期待する中、曙が若貴を連破した。

 2メートル超の長身から出される激しい突っ張り、押しは好調時には手がつけられず、貴乃花氏も「その足腰のバネといい、ちょっと今の力士たちには、なかなか太刀打ちできないくらいの威力があったと思いますよ」と評価する。





3人は引退後はそれぞれ別の道を歩むことになったが、貴乃花氏は良きライバル関係だったと明かし「(自身は)ライバル意識というのではなくて、逆にあちらの方がライバル意識というか、そういうのを多分、持たれていたのではないかと思います」と振り返った。曙さんは間違いなく、平成の大相撲人気を支えた主役の一人だった。

【優勝回数11回 03年格闘家転向】



漫画で若貴と曙のストーリーが描かれた漫画があった。

曙は股割りが出来ずに泣いていたー とかロッキーのテーマで自分を奮い立たせた!とか

若貴がヤクザに絡まれたが土俵を地面に書き、「この中でなら命張れるからかかってこい」と追っ払った逸話や

汗が結晶になるまて稽古を続けたー

とか様々なエピソードを知り、一段と相撲が面白くなっていました。



本当に曙関の功績は大きいと思います。

貴乃花との激闘50番は絶対に見た方がいいです。



曙関に心からご冥福をお祈りします。





 曙 太郎(あけぼの・たろう=大相撲第64代横綱、旧名チャド・ローウェン)1969年5月8日生まれ、米ハワイ州出身。

バスケット選手だった大学時代に東関親方(元関脇・高見山)に誘われ角界入り。88年春場所初土俵を踏み、長身からの強烈な突き、押しを武器に92年夏場所後に大関へ昇進。93年初場所後に史上初の外国出身横綱になった。優勝回数は史上10位の11回。96年4月に日本国籍を取得。98年長野冬季五輪では開会式で横綱土俵入りも披露した。01年初場所後に現役引退。03年11月に日本相撲協会を退職し、格闘家に転向した。現役時代のサイズは2メートル4、233キロ。