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麒麟がくるの結末とは?明智光秀はケチ?

信長家臣一の築城名人

近世城郭のモデルとなった坂本城を築城した
織田信長家臣一の築城名人が明智光秀
明智光秀が話題です!

明智光秀といえばケチなのかな?と思ってしまうのですが、それはなぜか?

子供の頃に聞いたダジャレに由来します。

信長「光秀!団子をくれぃ!」
明智光秀「はは!では3つほど!」

信長「あ!ケチ!3つ?ヒデー!!」

ズコー!

小学
そんな漫画を見てしまったものですから、明智光秀は団子を3つしかくれないケチな人のイメージです。
しかし、実際は優れた人だったようですね。

最近話題になってるのは 

やはりNHK大河ドラマ麒麟がくる
の登場人物ですからね。

麒麟がくるっといっても田村と川島じゃないですよ。ましてやYouTuberのキリンでもないです。(キリンチャンネル面白いです。)


さ!明智光秀に話しを戻します!

明智光秀は近世城郭のモデルとなった坂本城を築城した。
更に明智光秀は鉄砲の名手だったという。



若くして鉄砲の腕前を磨き戦に活用する仕組みを作った光秀。

信長仕官後の長篠の戦いにおいては、鉄砲に注目した信長が、光秀に火縄銃と弾薬の調達を任したとも言われ、影の立役者として勝利に導いたという説もある。


教養もあった明智光秀
茶、連歌にも精通する文化人だったという。





そんな明智光秀の軌跡とは?


光秀の軌跡

● 1528年(享禄1年)1歳 諸説あるがだいたいこのくらいの年にうまれたようだ。

美濃国(現在の岐阜県)にて生誕


(幼少期からおよそ28年間の記録がないそうだ)

● 1556年(弘治2年)29歳

斎藤道三斎藤義龍と争った長良川合戦で道三側に付いた光秀。
道三が敗死すると、明智城も攻め落とされ、越前へ逃れる。

● 1568年(永禄11年)41歳

足利義昭足軽衆として臣従。義昭が越前一乗谷から美濃岐阜へ移った後、信長が義昭を奉じて上洛。

● 1570年(永禄13年/元亀1年)43歳

近江・姉川合戦や志賀の陣で功を挙げ、出世の道に乗る。

● 1571年(元亀2年)44歳

光秀が中心となり比叡山延暦寺攻めを行う。
近江志賀郡を拝領し、初めての城作り、坂本城の築城を開始。義昭との主従関係を解消。

● 1575年(天正3年)48歳

朝廷より「惟任日向守」を賜る。丹波攻めを信長から命ぜられる。

● 1576年(天正4年)49歳

妻・煕子が病死。丹波攻めの拠点・亀山城の築城を開始。

● 1578年(天正6年)51歳

娘・玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁す。

● 1579年(天正7年)52歳

丹波と丹後の平定を完了させる。

● 1580年(天正8年)53歳

丹波を拝領。

● 1581年(天正9年)54歳

京都で行われたパレード『京都馬揃え』で、それまでの功績を認められ、序列3番目に並ぶ。
光秀父子が細川父子の招きで丹後の天橋立にて遊び、親睦を深める。妹の妻木が没する。

● 1582年(天正年)55歳

本能寺の変を起こす。
山崎合戦で敗死し、坂本城落城。